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しろくま、ホッキョクグマについて、教えて!
―レストラン"トレーダーズ・テーブル"の仲間たちー(その三)
01年8月

食事は、ムースのステーキ?それともカリブー?

レストラン・トレーダーズテーブルの重い木製のドアを身体ごと押し開けると、"カランコロン、カランコロン"とドアにかけてある大きな鈴が鳴る。

"お客さん。こんばんは、お元気ですか?お一人?禁煙席?喫煙席?どちらがご希望ですか"とウエイトレスが、声を掛けてくる。日本からの長旅で疲れているのか、それともこれからの見知らぬ土地での過ごし方への不安からなのか、その若いウエイトレスの笑顔がやけに嬉しい。

"今、満席なの。でも他のお客と一緒でよければ、大きいテーブルが空いているけど、それでもいいですか?それとも15分位待てる?"

ここ極北のレストランでも、禁煙席と喫煙席がある。と言っても禁煙のテーブルも灰皿持ってくれば、そこはもう喫煙席になる。一応聞いてくれるのが、まるで儀式のようで面白い。そしてこのレストランはチャーチルでは、珍しくにぎわいを見せるごく限られた場所だ。レストランの壁には、たくさんのハドソン湾の絵、ムース、じゃこう牛等の、剥製や角が飾られている。柱にはビーバーやカリブーの毛皮や昔海賊が持っていたような古い銃がたくさん掛かっている。本物かも知れない。レストランの奥には、アメリカ開拓時代の映画に出てきそうな大きな暖炉もある。

羅針盤、操舵輪、ランプ、太い船のロープ、ガラスの浮き輪、縄ばしご等の船具や船の旗が、ここが港町にあるレストランであることを物語っている。飾られているたくさんのハドソン湾の絵も、室内装飾のデザインのほとんどは、土地っ子のブライアン・ラドーンの作で、港町チャーチルの飾り気のない荒削りな面持ちとは違った雰囲気をのぞかせている。   (まだ、ブライアンに会うこともなかったし、こまめに書いたはずの私のノートにもこの名前はなかった)                       やはりここは極北のレストランは、日本では絶対見かけることのない装いだ。その後、ここが私のホームグランドとなるとも、このときは思わない。

ここに集まる人たちは、それぞれ、ビーバーの毛皮や厚手の毛糸の帽子をかぶっている。足には、フェルトを内側にはった大きなスノー・ブーツや寒さよけのための裏地が張ったゴム長靴、フードには毛皮のついた厚手のパーカーを羽織っている。更に、邪魔としか言いようのない厚手のオーバーズボンを履いている。その装いでトイレにいって用をたすには、それなりに技術がいる。歩く姿も、"ドスン、ドスン"と重いブーツを、木の床に打ち付けるように歩いている。もちろんのことだが、ネクタイやワイシャツ姿は、どうみてもこの店には似合わない。髭を生やした男の人は、現地の人か、何度もこの街へ来たことのあるひとだ。

この季節だけ、遠方から出稼ぎに来ている2人の白人カナダ人ウェイトレスと一人のウエイターは、学生みたいに初々しい。いつも笑顔で、きびきび働いている。

レストランの入り口近くの窓側に、詰めれば10人くらい座れる大きなテーブルがある。これこそが、シロクマの情報を集めたければ"世界で一番"だと聞く、たいそうなテーブルなのだ。まさに情報交換するためのテーブルがあるからこのレストランの名を"トレーダーズ・テーブル"と言う。そのほかに、15くらいのテーブルが見える。ここは見かけよりは、大きなレストランだ。
    
食事のメニューは限られている。チキン、ステーキ、北極マス(Arctic Char)に温野菜とスープだ。ステーキだけは、いろいろな肉がある。牛が中心だが、猟師がカリブー(トナカイの仲間)やムース(巨大なヘラ鹿)をレストランに持ち込んでくると、極北メニューは増える。ここでは、テーブルにクロス(布)が掛けるのは似合わない、テーブルの木がむき出しになっているのが、やたら極北にいる気分にさせてくれる。

”お客さん。今夜は何にをたべますか?”と、今夜のお薦めメニューを一気に言ったあと聞いてくる。                       "わかんないな、ムースのステーキおいしいですか?"とウエイトレスに尋ねる。"美味しいわよ。いつもあるわけではないから、あなた!今日はラッキーよ"。

命まで取られることはないだろう。よーし、今日はムースにしよう。"ムースのステーキを一つ下さい。焼き加減はミディアムでお願いします"。"きっと美味しいから、楽しんでね"とウエイトレスはにっこりしながら言う。その若々しい笑顔は、最初からチップを余分に払いたくさせる。

"こんばんは、私は日本から来たHisaです"と、カナダの地ビール"OV"をラッパ飲みしながらテーブルの前や隣の客に自己紹介をする。ここでは、コップでビールを飲む人はあまり見かけない。このテーブルを前にしては、私はだだ1人の旅人でしかなく、肩書も名刺も、過去にした仕事も、この北極から吹いてくる烈風に吹き飛ばされた。小気味よいほどに。

私の写真の技術も自然に関する知識も、はたしてどれだけ通用するのか。日本語の通じないこの場所では、そんな不安がよけいに強くなる。到着までには、日本から2日かかった。日本との時差は15時間。1日遅れの日を過ごしている。このずれはいつまでたっても、しっくりこない。
                                  (続く)

(C)1997-2006,Hisa.